キリスト教系統の学校出身だと言うと、時々「じゃあ信者さんなの?」と聞かれる。
答はNOだ。確かに聖書は家にあるし、むしょうに読みたくなってページをめくることもあるけれど、洗礼は受けていないし、毎週日曜日に教会で礼拝しているわけでもない。キリスト教は、私の中で信仰という形では昇華しなかった。

だけど。聖書に書いてあることが真実だとか間違いだとか、そういうことを超えた次元では確かに私はキリスト教を大切に思っている。それは故郷に対するノスタルジーのような、絵画や音楽に傾ける愛情のような、真偽を問題にしない次元で親しみを覚えているということだ。多感な思春期の6年間を一緒に過ごすことによって生まれた私のアイデンティティーだ。

私が日本に生まれたから日本を愛したように、彼らはキリスト教の中に生まれたからキリスト教を愛したのだ。愛すれば、それはあるいは信仰となり、真偽を超越したところのアイデンティティーとなる。黄昏時の帰り道、不意に漂ってきた夕餉の香りに覚えるノスタルジー、そんなものに対して、真偽という枠でくくろうとする姿勢がすでに見当違いであるように、宗教というのは人格を形成するところの土台のような存在になっていて、真偽を問うのはすでにナンセンスなのではないか。
真偽を問おうとするから上手くいかなくなるのではないか。聖書の内容に科学的なメスを入れて一刀両断をするのは容易だと私は思うが、その行為自体に意味はないとも同時に思っている。
勿論、聖書の内容を科学的に、肯定的に説明しようというのは遊びとしては楽しいけれど、遊び以上の意味もまた見出してはいない。
信仰というものは、ただ理論のみによって納得して得られる場合も勿論あるかもしれないけど、それ以上に、それに付随している何かを大切に思うことによって生まれる面も大きいのではないだろうか。それは正否を問う科学よりも、郷愁のような領域に存在する精神的活動なのではないだろうか。

私はクリスチャンではないけれど、キリスト教を含めたあらゆる宗教を否定しないし、絵画や音楽のような文化として愛でることができたら素敵だと思うし、キリスト教に対しては、それに近い愛情をすでに獲得していると思っている。思い上がりだろうか。仏教や神道に対しても似たような感覚は持ってると思うんだけど。

だからか私は。何かに対して信仰を持っている人間を差別的な視点で見る自称無神論者が苦手だ。無神論結構。私だって無神論者に分類されるだろう。だけど、その帰属する宗教に対する愛情、故郷に対する郷愁のような感情を否定されているような気がすると、少し悲しくなる。それは個人のアイデンティティーを嘲笑する無粋な行為に思えるからだ。

誰に言われたからというわけじゃないんだけど。時々出身校の話をする時に感じる閉塞感。それに対する分析としてこの記事を書いてみた。
 

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コメント

No title

信仰ってものは理解じゃない。悟ることじゃない。受け入れることだと思う。

キリスト教にノスタルジーは感じるけど無神論者だ、というのはあたしだって同じ。
あたりまえのようにそこにあれば、どういう形であれ血肉になってる。

No title

受け入れるかあ。的確な表現だわ。
私の最近の物理数学に対する姿勢はもう学問じゃなくて信仰になりつつあるかもしれない。笑

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